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聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日 ▼ 説教草稿——振り返らずに従うという自由

 ▼ 説教草稿——振り返らずに従うという自由 【教会暦】 聖霊降臨後第三主日 二〇二五年六月二十九日 【聖書箇所】 旧約日課 :列王記上 一九章一五〜一六節、一九〜二一節 使徒書  :ガラテヤの信徒への手紙 五章一節、一三〜二五節 福音書  :ルカによる福音書 九章五一〜六二節 【要旨】 自由とは、欲望のままに生きることではない。それは、キリストに従うことによって与えられる、霊による新たな生き方である。エリシャは農具を焼き、過去を手放して預言者の召命に応えた。主イエスは、手を鋤にかけた者が後ろを振り返ることなく、神の国のために歩むよう招く。私たちは、愛によって互いに仕え合い、霊の実を結ぶ自由の道を歩む者として召されている。 【本文】 神の国へのまなざしを整える時  聖霊降臨の祝日から数えて三つ目の主日を迎えたこの日、私たちは、神の国の到来を見つめつつ、地におけるキリストの道をあらためて問われる。  典礼の色は緑である。それは、単に安定や成熟を表す色ではない。この季節において緑は、聖霊によって養われる成長のしるしである。信仰はただ芽吹くだけでは不十分であり、霊的な実を結ぶことこそが本質であると、聖霊降臨後の諸主日は繰り返し私たちに告げる。  けれど、成長とは、静的で緩慢な過程ではない。それはむしろ、断念と決断、召命と応答という切断の繰り返しを経て成立する。きょう与えられた聖書箇所はいずれも、過去との断絶を伴う召しに対して、ひとがどう応答するかを描いている。そしてその応答のかたちは、古代の預言者にも、初代教会の信徒にも、主イエスと道を共にする弟子にも、それぞれ異なる様相を帯びている。  「自由」の季節――それがこの主日のもう一つの霊的背景である。ガラテヤ書が語る「キリストによる自由」は、ただの解放ではない。むしろそこには、「愛によって互いに仕え合いなさい」という制限がある。この矛盾のような真理の内に、信仰者の成熟があるのだ。  今ここに集う私たちも、神の召命に対し、自由の霊に導かれつつ、なお振り返らずに歩む者となるよう招かれている。 召命とは、焼き尽くす決断である——エリヤとエリシャの交代劇  旧約日課の舞台は、エリヤとエリシャ、ふたりの預言者の交差の瞬間である。北イスラエルの王アハブの時代、偶像礼拝と霊的退廃が極みに達していた。エリヤはカルメル山でバアルの預言...
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▼ 牧者雑記「東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている」

 牧者雑記(2025年3月11日)  14年経った。それでも日本は「災害大国」の名を返上できず、無数の命が失われ続ける。「備える」と言いながら、同じ苦しみを、同じ過ちを、幾度となく繰り返している。  能登半島地震では、直接の死者を上回る「災害関連死」が300人を超えた。寒さと飢え、劣悪な避難環境が人を死へと追いやった。これは「天災」ではない。「人災」だ。  東日本大震災から何を学んだ? どこに生かした? 被災者を置き去りにし、政治も行政も責任を曖昧にし続けている。  福島第1原発事故も終わっていない。処理水放出、除染土の処分、核燃料の行き場なし。復興を叫びながら、その足元には未解決の問題が山積する。廃炉は進まず、未来の世代にツケを回す。  言葉だけの「教訓」は不要だ。避難所の改善、医療の充実、高齢者の孤立を防ぐ仕組み、これらを即座に実行しなければならない。「次こそは」では遅い。今、この瞬間に対策を打たなければ、また死者が積み重なる。  語り継ぐのは、悲しみではなく怒りである。忘れるな。過去を悼むだけでは、未来を守れない。  どうか、大切な方々と分かち合い、共に思いを深めてください。  皆様へ。特に東日本大震災の死傷者、被害に遭われた方々、そして今もなお災害の影響に苦しんでおられる方々のために。  亡くなられた方々が、主の御手のうちに安らかに憩われますように。  生きておられるすべての方々の上に、主の慰めと平安が豊かにありますように。

▼ 教会時論「戦争は愛を引き裂き、人間を砕く――東京大空襲80年に寄せて」

教会時論(2025/3/10) 八〇年前の東京の夜に  八〇年前の東京の夜、炎が人びとの命を容赦なく飲み込み、家族を引き裂いた。  母は子を抱きしめたまま、父は必死に叫びながら、焼け落ちた家の中でその生を終えた。戦争とは、そういうものだ。  「国を守る」?「誇りのため」?――そんな言葉では到底、救いきれない死が、そこに確かに存在していた。 美辞麗句の背後にある現実  好戦的な者たちは、今もなおいる。  「抑止力」「防衛のため」と美辞麗句を並べても、その代償として血を流すのは、力なき市井の人びとである。  銃が平和を生んだことはない。焼夷弾が正義を証明したことも、かつて一度としてなかった。  空襲の夜に失われた命の重みを、政治の駆け引きや防衛論争の中で忘れてはならない。 九条の意味――過去から未来への誓い  憲法第九条、それは人類が戦争の狂気から生還した証であり、未来への誓いであった。  だが今、その誓いをないがしろにする声が大きくなりつつある。  戦争は「いつかまた」ではなく、「決意ひとつ」で始まってしまう現実である。  だからこそ、わたしたちはこの日に立ち止まり、思い出す必要があるのだ。  戦争は、愛を引き裂く。  だから、戦争を拒む。  それこそが、人間の選ぶべき唯一の道である。 祈りと分かち合いのすすめ  どうか、この記憶を、大切な方々と共に分かち合ってください。  そして、あの日に失われた命と、その叫びに心を重ねながら、共に思いを深めてくださいますように。  

大斎節第一主日 二〇二五年三月九日 ▼ 教会時論「国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき」他 ▼ 説教「荒野を越えて、御言葉に生きる」

  教会時論・説教(2025年3月9日)  わたしたちは日常を生きる中で、時代が刻む痛みや揺れ動く社会の声をどれほど受け止めているだろうか。世の中に溢れるニュースは、決してわたしたちと無縁ではない。  社会の変容や事件の深層には、わたしたちが信じる価値や良心を絶えず揺さぶり、問い直す力がある。今週もまた、わたしたちは目を背けることができない出来事を目の当たりにした。ジェンダー平等への道のりがあまりにも遠い日本社会、原発事故裁判が明らかにした社会的責任の在り方、米国で高まる自由と民主主義への危機、兵庫県知事をめぐる倫理と権力の問題、そして大船渡で猛威を振るった山火事が示す自然との共生の難しさ―。  これらの現実を冷静に見つめ、その奥にある問題の本質を掘り下げることが求められている。今こそわたしたちは、傍観者ではなく当事者として社会に向き合い、信仰と行動を通じて応答すべきである。今日の《教会時論》がその一助となることを願いつつ、論考を始めたい。 国際女性デー50年——意識と制度、変革のとき  今年の3月8日、「国際女性デー」が国連で制定されてから半世紀を迎える。50年前、女性の権利向上と社会参加を世界規模で推進すべく立ち上がったこの記念日は、女性たちの長い闘いの歴史に光を当ててきた。  しかし、日本に目を向けると、そこに映るのは道半ばどころか、いまだ進歩の兆しが見えにくい現状である。  日本社会の男女平等度を示す指標は、昨年も国際的な比較で低迷を続け、146か国中118位にとどまった(世界経済フォーラム調査)。特に政治分野と経済分野における遅れが顕著だ。たとえば、昨年の衆院選で女性議員の割合は過去最高の15.7%となったが、有権者の半数が女性である事実を前に、この数字を「前進」と呼ぶのは憚られる。  政党や政治の世界には今なお男性中心の意識が蔓延し、女性の参画を促す環境整備や、クオータ制の導入をはじめとする実効的な改革は後手に回ったままである。  企業の現場もまた同様である。わずかではあるが女性役員の登用も見られるようになったが、1600社以上ある上場企業の中で女性CEOはわずか13名、全体の0.8%にすぎない。女性たちは出産や育児によるキャリアの途絶を余儀なくされ、非正規雇用に追いやられるケースも多い。さらには、男女の賃金格差は解消されるどころか、依然として根...

▼ 牧者雑記「のろのろ、もたもた──日本の『のろまな教会』に喝!」

教会時論(2025年3月7日) 名古屋高裁の判決と、問われる政治と教会の怠慢  名古屋高裁がまた一つ、未来へ向けた大きな一歩を踏み出した。「同性婚を認めないことは違憲」——当然だ。  子どもの福祉にまで深刻な影響を及ぼす現行法の不備が、ついに司法の場で明確に断罪された。判決は、同性カップルが直面する現実的な困難を直視し、理屈抜きに「こんなの不公平じゃないか」と言っているぞ。まっとうだ。理路整然としている。  こんな当たり前のことを言うのに、どうして何年もかかるのか? この国の立法府よ。のろのろ、もたもた、何をぐずぐずしているのか。違憲判決が全国で相次いでいるのに、いつまで「国会で議論を深める必要がある」とか「国民の理解が」とか、のらりくらり言い続けるつもりか?  「議論を深める」って、結局何をしているの? 何年も前から同じ場所で足踏みして、同じことを言っているだけじゃない?  「国民の理解」なら、もうとっくに進んでいる。世界の流れも、日本国内の世論も、同性婚の合法化を求めている。それなのに、この国の政治は、まるでガラパゴス、時代から取り残されている。 日本のキリスト教界への叱咤  そして、日本のキリスト教界よ!  言っておくが、君たちの足の遅さは、もはや奇跡レベルだぞ。世界の教会はとっくに動き出しているというのに、未だに「聖書はどう言っているのか」などと、無駄な討論をしている。  「考える」どころか、結論を先送りし続けているだけではないか?「新しい神学的視点を」などと言いながら、出てくるのは、何の目新しさもない、ありふれた翻訳本の紹介。しかも、それを「これぞ現代的アプローチ!」などと誇らしげに語る、ろくでなしの聖職者たち。時代遅れにもほどがある。笑うに笑えない。  欧州、カナダ、米国、オーストラリア——これらの国々は、すでに同性婚を法制化し、教会もそれに対応している。人権を尊重する社会では、もはや議論の余地すらない。  しかし、日本の教会はどうだ? 沈黙か、または「伝統的な価値観」とやらを盾にしての先延ばし。これは信仰でも何でもない。単なる怠慢だ。 いまこそ応答を  もう待てない。同性婚を法制化せよ。それが人として、国として、そして信仰者としての責務である。  社会は前に進んでいる。取り残されたくなければ、いい加減、動け! 【引用】 毎日新聞. (2025年3月7日...

▼ 牧者雑記「偽善にも露悪にも与せず」

牧者雑記(2025年3月6日)  教会の中にも、そしてこの世界の至るところにも、右と左、偽善と露悪、あらゆるものが入り交じっている。まるで人の世に光と影があるように、その空間には矛盾と混乱が渦を巻いている。  だが、信仰者にとって本当に大切なのは、その入り組んだ現実を見極め、どちらの極端にも安易に与しないことだ。偽善を憎むあまり露悪へと傾けば、やがて自分を絶対的な正義と錯覚し、知らぬうちに別の欺瞞に取り込まれてしまう。逆に、露悪を嫌って偽善に染まれば、それはただ都合のいい「善」の仮面を被って、責任から逃げる行為にすぎない。  どちらも、本質的な誠実さから遠ざかっていく危うい道である。  だからこそ、わたしたちは流行や空気に流されることなく、自らの足で立ち、心の奥深くで真理を問い続ける素養を養わなければならない。沈黙の中で、祈りの中で、ほんとうの誠実とは何かを、見つめ続ける勇気を持ちたい。

▼ 牧者雑記「紫の季節、祈りと希望のあいだに――大斎節に染まる教会、その静けさに耳を澄ませて」

  牧者雑記(2025年3月5日) 紫色に託された意味  ある日ふと教会の中に足を踏み入れると、祭壇の布や聖職者の着ている衣が一面「紫色」に染まっている――そんな光景に出会ったことはないだろうか。この紫という色には、単なる装飾を超えた深い象徴的意味が託されている。  キリスト教の典礼暦においては、季節ごとに特定の「色」が定められている。それは、信仰の歩みに寄り添いながら、礼拝空間に視覚的なリズムと霊的なメッセージをもたらすものだ。その中でも紫は、特に静けさと重みを湛えた色として知られ、「降臨節(アドベント)」と「大斎節(レント)」という、内省と準備の時期に主役を務める。  なかでも、大斎節における紫には、ひときわ深い祈りと沈思の空気が込められている。それは悔い改めと再生を促す色であり、わたしたちを新しい命へと導く、霊の季節の始まりを告げる色である。 悔い改めと再創造への招き  大斎節は、「灰の水曜日」から始まり、イースター(復活日)へと向かう四十日間――ただし日曜日は除かれる――にわたって続く。この期間、教会全体は「悔い改め」と「霊的な準備」に焦点を当て、沈黙と祈りのうちに歩みを進める。  紫は、かつて王侯貴族に用いられた「高貴さの象徴」であると同時に、「悔い改め」や「苦難」の色としても知られる。思い起こすべきは、イエスが十字架へと向かう道中、兵士たちによって紫の衣を着せられ、嘲弄された場面である(マルコによる福音書十五章十七節)。  この出来事において、紫は王の威厳と共に、苦しみと侮辱のしるしともなった。ゆえに、大斎節における紫は、王としてのキリストと、苦難のなかでなお愛を捨てなかった主の姿とを重ね合わせる色として、わたしたちの心に深く訴えかけてくる。  この季節、わたしたちは単に過去の過ちを省みるだけでなく、より深く、神との関係を回復するための旅路へと招かれている。悔い改めとは、単なる反省ではない。それは、古い自己に別れを告げ、新たな生き方へと踏み出す、意志と信仰の選択である。 Ⅲ 霊の歩み――三つの実践  この紫の季節において、教会はわたしたちに三つの霊的実践を勧めている。それは、単なる宗教的義務ではなく、わたしたちの存在全体を刷新するための「生活の祈り」としての営みである。 1.祈り  忙しさに追われる日常の中で立ち止まり、心の静けさを取り戻すとき。...
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